「芳翠古稀心畫」の鑑賞
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2 題畫五絶、幅(草書)

「獨歸荷笠僧、門外緑層々。鐘響催斜照、榴花紿法燈。」 芳翠山樵、英。

1964年詩書個展出品 140×35p

 第二作は、天地 31pにカラーで別刷りして頁の中央に貼られている。

引首(いんしゆ)に長方朱文の「漱雲」(新間靜邨刻)がツ(けん)され、落款印には白文「來吉齋」と朱文「子華」(共に中村蘭台刻)が用いられて、朱色も鮮やかに印刷されている。

「獨(ひと)り歸(かえ)る荷笠(かりゆう)の僧(そう)、門外(もんがい) 緑(みどり) 層々(そうそう)。鐘(かね) 響(ひび)いて斜照(しやしよう)を催(うなが)し、榴花(りゆうか) 法燈(ほうとう)を紿(あざむ)く。」

(荷葉の笠をかぶった僧侶がひとり山寺に歸って行く。寺の門外には、木々の緑が濃淡に鬱蒼(うつそう)と茂っている。寺の鐘が響いて、夕陽は更に傾きを早めるかのようだ。その中に真っ赤に咲いた石榴(ざくろ)の花が、あたかも法燈(ほうとう)のように明るく輝いている。)

 自詠の五言絶句は『題畫五絶』というが、正に一幅の山水畫が腦裡に浮かぶようである。

 この詩は、同じ榴花を詠じて「紅一點」(多くの男性中に一人女性が居る譬(たとえ)などに使われる。)の語源となった王安石の「萬緑叢中紅一點」の句を踏まえての作だろう。

 石榴はあまり多くの花をつけないようで、細長く深紅の榴花は、確かに燃え上がる炎を彷彿(ほうふつ)させる。それが夕陽に照らされているから尚更であろう。勿論、「緑層々」が紅い「榴花」の背景に、また、「荷笠僧」と「鐘響」が「法燈」の伏線になっている。

 芳翠先生が漢詩人としても第一流であることは、この『古稀心畫』を鑑賞していく中で徐々に分かっていただけるだろうから、詩の解説は程ほどにして、書の鑑賞に移ろう。ただ、書はその詩文と共に作品として成り立っていることを、この作品からも確り再認識していただきたい。

 書の鑑賞者は、先ず無心になって書作品を眺(なが)め、そこに書寫された墨蹟の佇(たたず)まいを觀るべきだろう。名のある作家だとか、誰の收藏だとか、價格の高い作品だなど、餘計な先入觀は鑑賞の妨(さまた)げになる。

 作品全體から受ける印象には、迫力、沈着、瀟洒、優美、格調、幽婉、枯淡、妖艶、清楚、激昂、閑静と、作品それぞれの風趣があろう。

 芳翠先生のこの作品は、そのさまざまな要素を包含していて、端正にバランスされた氣高い風韻を湛(たた)えている。

 全體の風趣を看取したら、詩文を讀むべきである。ただ草書は讀み慣れた人と讀めない人がいる。讀めない人でも一字一字を見ていって讀める字を捜し、文意からその前後を類推して一字でも多く讀むことに努めて欲しい。作品に釋文がついて展示、掲載されていれば、讀めなかった字を確認し、釋文がなければ、後で字典を調べるなどの努力をして欲しい。その繰り返しで次第に草書が讀めるようになる。その努力をしない人に、書をは多くの見返りを與えてはくれない。

 この作品は、自詠五絶二十字を二行に、各おの十一字と九字を配し、別行落款を加えた草書半切としては最もオーソドックスな構成である。

 比較的讀みやすい草書で、「荷笠」の「荷」は前後から類推できるが、「榴花」の下「紿」字は滅多に見ない字ですぐには讀めないかも知れない。この詩の重要な詩眼となる一字で、「紿(あざむ)く」と分かり詩の内容が理解できた時、この作品が一段と輝いて近づいてくるに違いない。

 字を讀んでいく時には、自ずと筆者の書寫振りを思い浮かべながらその筆線を追いかける。丁度、レコードの溝に針を置いて筆音の響き(筆者の息遣い)を聽くようなもので、その音階、リズムに耳を傾けるうち、やがてその調べは觀者の心奥の琴線と共鳴する。その時始めて書を鑑賞した悦びを覺えるだろう。

 曾て臺灣の江兆申先生が「山水畫はその中に潜む幽遠な紀行文を讀め。」と言われたが、「書はその筆線に籠められた調べを聽け。」といえないだろうか。

 歌の音階、リズムは歌詞と密接に關連する。「咲いた咲いたチューリップの花が…」を「蝶々、蝶々、菜の葉に止まれ…」の音階では歌えない。

 同様に詩文を書く場合も、自ずと文字の大小、長短、寛窄、粗密の違いを自然に表現し、熟語、單語の結びつきを大切に配置する必要がある。

 よく「作品創りの第一歩は選文にある」と言われるのはそのためで、文字や文を自然に配置してそのまま作品になるような詩文が書きやすく、出來映えも良いものだ。

 ただ、そんな都合の良い詩文ばかりを選んで書くことはできない。芳翠先生ぐらいになると、敢えて難易度の高い詩文にウルトラCを連發して見せた作品が多いものだ。

 さて、この五絶はどうだろう。

 五言句は「二・三」又は「二・一・二」に分けられる。この作品を見ると、概ね

獨 歸 荷笠僧 門外 緑 層。 鐘

響 催斜―照 榴花 紿 法燈

のように、熟語などが自然に結びついている。

畫數の少ない「門外」は形良く一塊に書かれ、畫數多い「響」は、上の左中右に分かれる「郷」が強めの線で、下の上下に重なった「音」は輕いタッチで添えられている。

長く伸びる線は「歸」と「斜」。「歸」は、偏の縦畫と向勢に間合いを空けて鋭く引き抜かれ、「斜」の長竪は、偏との間合いは勿論、右行の「歸」の兩縦畫や「荷笠」の二字とも響きあって、絶妙な掠れと揺れを留め、その餘韻は「照」に受け繼がれている。

 この「僧」と「照」の輕重の對比もこの作の一つの見せ場となっている。

 漢字はその大半が形聲文字で意符と聲符を合わせて作られ、その多くが偏と旁に分けられる文字である。

この五絶二十字でも、「荷笠門外層響照花」以外は單純な偏旁の文字である。これら偏旁の文字をどう構えて作品にするかが、創作の重大な要訣の一つといえる。

 偏旁の間は空(あ)けるか狭(せば)めるか、或いは片方を下げたり上げたり、時に強弱をつけたり、色々な變化が可能だ。しかし文字としての纏まりを失ったり、全體の調和を亂してはならない。

 芳翠先生はこの作で、ある試みに挑戰しているように思われる。それは、

「獨、僧、緑、響、催、紿」の偏の形状の類似だ。「獨」こそやや異なるが、人偏も糸偏も郷の偏もほぼ似た形状に作られている。本來、何を書いても同じように見えるのはいけないこととされるが、敢えて類似形にする理由は何か。

先の「咲いた咲いたチューリップの花が」「並んだ並んだ赤白黄色」のメロディーは「A」「A′」の關係にあるのと同じ効果がないだろうか。

  實はこの作品ほど顕著じゃなくとも芳翠先生の作品には敢えて意識して同じ形、類似した形?を配置したケースが良くある。

 或るパターンが繰り返された時により調和して、一體化させる効果があるのだろう。

 しかし、これは草書をとことん理解して、筆線の妙味を徹底的に知り盡くした芳翠先生にして始めて成し得る技で、未熟者の真似のできる境地ではない。それが證據に、どの類似形も微妙に異なり、それぞれが一字の中で絶妙な構えで美しい姿態を演じているからである。

 從って、芳翠先生の作品を鑑賞する場合、単にレコードの音を聽くだけではなく、DVDの畫像でメロディーと一體化した名優の舞踏をも鑑賞するような滿足感を覺えるのである。