「芳翠古稀心畫」の鑑賞
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3  七十自述、幅 (行書)

「誰言七十古來稀、鐵硯未穿將夕暉。

願把巨毫題碧落、百年天地自然歸。」

七十自述、芳翠山樵。 (古稀記念展出品 140×50p)

第三作は、古稀を迎えた書家としての胸懷を詠じた七絶を行書で聯落ちに揮灑した作。

この冊に載る書作品に籠めた意氣込みを發露した「自序」と言える作品である。

 なんと高遠にして雄大な氣概だろうか。この志で書道人生を全うしたからこそ、ここに掲載された珠玉の數々を生み出し得たのだろう。この作も一筆一筆に毅然とした氣力が充ち、鍛え拔かれた筆致が生動している。

 私は前回、草書を鑑賞する際、「字を讀みすすんでいく時には、自ずと筆者の書寫振りを思い浮かべながらその筆線を追いかける。丁度、レコードの溝に針を置いて筆音の響き(筆者の息遣い)を聴くようなもので、その音階、リズムに耳を傾けるうち、やがてその調べは觀者の心奥の琴線と共鳴する。その時始めて書を鑑賞した悦びを覺えるだろう。」と述べた。

 行書作品も實は同樣で、草書が美しいメロディーを奏でる管樂器であるとすれば、行書は心地良いリズムを傳える打楽器のように思える。時に強く、時に輕く、時に早く、時にゆっくり、空氣を振動させて體に傳わり、心に響く太鼓のように、芳翠先生の行書は強いインパクトを與える。

 芳翠先生は、若い頃に王羲之の「蘭亭敍」を臨して大正平和博覽會で最高賞・金牌を射止め、東方書道院の第一回展には趙子昂の「蘭亭十三跋」を臨書復元して話題となった。

 オーソドックスな行書、草書とも通ずる行書を得意とするが、一方、この作品に書かれたような直線的で強靭な筆致の楷書に通ずる獨自の行書を創り上げられた。

 實は、世に芳翠流と稱される楷書も、この行書も、また、狂草とは違い正統にして變化を極めた草書、そして獨特の瀟洒な隷書は、芳翠先生獨自の書風であり、どれもが古典を渉獵した上で格調を保って筆法を驅使し、書美を究悉した結果である。單なる情趣の發散や奇趣の披瀝とは異なる、正に本格の輝きである。

 芳翠先生の目指したものは、單に見應えのある作品制作ではなく、當代の書家として古典・傳統の上に立脚した新たな格調高い獨自の書風を創作することであったに違いない。

 果たして、それは見事に實現され、芳翠流は萬人が認める冨士山のような書美を各書體に表出したのだった。

 かつて鈴木翠軒翁は、芳翠先生の書業を讚えて次の句を詠んで贈られた。

   「西行も 笠ぬいでみる 冨士の山。」

 芳翠先生自身、よく「冨士山のような書をかきたい。」と言われていたが、正に「願把巨毫題碧落、百年天地自然歸。」を實踐成就した書道人生だったと言えよう。


さて、今回の行書作品を觀て行こう。行書は打樂器の演奏のようだと言ったが、打樂器と言っても色々である。大小の和太鼓もあれば、ドラムセットもあり、ピアノや木琴、ビブラフォンも打樂器であり、ティンパニーや銅鑼と音色も多樣だ。

芳翠先生の小・中行書は、ビブラフォンのような輕快なタッチでリズム良く書かれたものが多く、一方、聯落ちの大行書には、ドラムセットのように多様なものと、和太鼓のように重厚なものとがある。

この作は和太鼓だろうか、音色の變化より音の大小、強弱やリズムの變化で聞かせる。

字の大小は、字自體が本來持っている大きさに從い、線の潤渇は墨量に從って自然に且つ必要に應じて肥痩の變化を加えている。

作品の上部より下部に込み入った字が多いので、「稀鐵硯」「巨毫題」は渇筆の細めの線でやや小さく書かれている。

上部は一行目の「誰言」を強く、中行の「未穿」を細く、三行目の「碧落」を太くする。

「言」が細長く點の連續になるが、「落」は大きい。中の「穿」の下部がより右寄りなのは、自然にして巧妙、實に形も良い。

中行で、小さく且つ渇筆の「夕」と「巨」とは周圍に十分な餘白を與えて存在感を示している。小さい字の周りを詰めないことが大切である。

「夕」の下「暉」字は日偏をやや強く「軍」を細く渇筆にしている。「日」が小さいからではない。この効果は、左行の「百年」が「百」を細く「年」を太くしたのと對應し、何より下の「願」の偏を強く、旁を輕くする前置きとなっている。

「願」は「頁」を並べた古い字形で書き、左を強く右を輕くする。若しここで左右共に強く書けば、横に並んだ「來・願・地」が窮屈になって仕舞う。ここの輕重は不可缺のテクニックである。

同じように、「碧落」は強い筆致で連なり、重くなり過ぎるを嫌って「碧」の「石」の「口」を下げて空白を與え、「落」の横「一」畫を細くして變化を加えた。ただ唐突にならないように、續く「百」の「一」も同じように細くしている。

要は、偏旁や點畫の強弱などの變化が、突然に孤立して現れると奇異に感じるが、確りお膳立てをしておけば、自然に違和感なく見られるのだ。

また、「誰言」の「亠」形、「七十古」の「十」形、「將」「夕」の「夕」形、「願」「自」の「自」形、「硯」「題」の「目」形、「碧落」の「口」形の類似は、先の「落百」の細い「一」と同樣に、全體の統一的調和に有効である。

更には「稀」「暉」「年」「歸」の垂露や「來」「天」の右拂いは、目立つ畫なので、その位置と變化には細心の注意が拂われている。結局、芳翠流の行書は、打樂器の演奏に徹してあまり餘計な音色を使わず、音の大小、リズムの變化で魅了する演奏法である。

筆遣いに大きな變化はなく、横畫も縱畫も直線的で角度も統一されているだけに、筆致の變化で魅せるのは至難の業であるが、鍛え拔かれた筆力がそれを成し遂げていると言えよう。

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