書海社

「書道の世界」を豊かに

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書 海 社 の 沿 革

財団法人『書海社』役員
創  

二十一世紀

 書 海 の 創 刊
 大正10年(1921)、当時書壇の新鋭、吉田苞竹(31)、相澤春洋(25)、松本芳翠(28)の三人が共同して月刊競書誌「書海」を発行。間もなく関東大震災などで経営困難に陥ったものの、芳翠が単独経営で継続刊行することになりました。
 創 生 期 と 芳 翠
 松本芳翠は、大正11年の「平和博」で最高賞金牌を受賞したように抜群の書技と、昭和4年「書海」に発表して書壇を揺るがした「書譜の新研究」が示す周密な研究と、恩師・加藤芳雲から学んだ漢詩文に対する深い造詣とを以て、戦前の書壇で目覚ましい活躍をしました。
 戦 前 の 芳 翠
 芳翠は昭和6年に河井セン(艸冠の下に全)廬を団長とする江南書道視察団に参加。それに前後して起こった書壇の改編騒動の中、有志と東方書道會を結成。書海社も東方を拠点に発展し、「書海」は最も権威ある競書誌として多くの書家が学び、書壇に大きな影響を与えるに至りました。
 戦 中 の 休 刊
 太平洋戦争の戦渦で「書海」も休刊を余儀なくされ、敗戦により芳翠は混乱を避けて一時疎開。戦争で多くの先輩、書友を失い、家も蔵書、文物も灰燼に帰して失墜した芳翠でしたが、書道の再興を期して、昭和21年7月に「書海」再刊に漕ぎ着けます。
 戦 後 の 書 道 ブー ム
 やがてベビーブームに伴う書道塾ブームで、昭和29年には「書海」から「学生書海」を独立させます。また書海社は、昭和35年11月に、文化庁所轄の財団法人となり、書道の教育普及、向上発展に大きく寄与することになりました。
 戦 後 の 芳 翠
 松本芳翠は、昭和30年に書壇で最初の藝術選奬文部大臣賞を受賞、35年に日本藝術院賞を受賞するなど、日展、二十人展、毎日書道展、東方書展等で活躍。また書道振興に尽力する一方、自詠自書の枯淡の境地に遊逸し、46年には藝術院会員に選挙されます。
 谷 村 憙 齋 の 継 承
 松本芳翠は、藝術院会員就任直後の12月16日に79歳で急逝。書海社は間近に迫っていた台北歴史博物館に於ける日華書法聯合展を喪を伏して決行し大反響を呼びます。そして翌年、戦後の書海社の運営を担ってきた芳翠の女婿・谷村憙齋がその遺志を継いで会長に就任します。
 谷 村 憙 齋 の 書 学
 谷村憙齋は、大正11年(1922)奈良県に生まれ、郡山中学時代に中谷釜雙の下、同学・今井凌雪等と共に切磋琢磨して書を学び、國學院大學進学で上京すると、松本芳翠に入門。また、書壇の権威・河井セン廬の教導を受け、将来を嘱望されるも、学徒出陣で中国に派兵されます。
 憙 齋 の 書 海 社 運 営
  芳翠の生前から書海社は日展の審査運営に異議を覚え出品を止めていましたが、憙齋の指導下、昭和48年から毎日書道展に参加し、やがて伝統派による讀賣書法会の結成に加わります。一方、昭和32年に創設した東方書道院では、憙齋は最高会議員としてその運営に大きな力を発揮してきました。
 台 湾 文 化 界 と の 交 流
  憙齋は日華書法聯合展を機に、故宮博物院での「書譜の再研究」などで、台湾文化界との深い絆を築き上げました。この事が、後の林柏壽氏「蘭千山館書画」の出版に繋がり、引いては二玄社の「故宮博物院書画複製」という大事業に発展していったのです。
 (成 田 山 と 書 道 界)
 成田山新勝寺が1150年を記念して大塔を建立するに当たり、書壇から1150人の作品を納めたいとの希望があり、相談を受けた憙齋は青山杉雨に相談し、書壇を挙げての奉納が実現します。その後、全国競書大会や書道美術館建設などに発展、成田山と書道界との結び付きに憙齋は大きく貢献しました。
 通 巻 1000 号 を 達 成
 昭和4年に発刊した「書海」誌は、2008年12月号で通巻1000号を達成しました。一方、昭和27年以来「書海社展」を毎年開催、また「師範展」や「同人展」など多くの書展を開催してきました。更には講習会や研究会もしばしば開催して、書海社は活発に活動して参りました。
 3代目・谷 村 雋 堂 の 継 承
 谷村雋堂は、父・谷村憙齋の強い要請で書海社に入社、昭和52年から3年間臺灣師範大學に留學、現代北京語および古文を習得しました。歸國後は芳翠先生以來の「節筆研究」にも没頭、新たな研究成果を次々と發表、讀賣書法會や東方書道院に參畫し作品發表の傍ら、漢詩文の自詠自書の作品にも取り組むなど、書海社の伝統を守りながら、書道文化の発展と啓蒙に取り組んでいます。 21世紀の「書海社」の更なる発展に向けた「書海丸」の船出にご期待下さい。


(平成26年度)  財団法人『書海社』役員 
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